2019年、ZOOMが発売したフィールドレコーダー「F6」は、デジタル録音のワークフローそのものを根本から見直す製品でした。世界で初めて「DUAL AD(デュアルADコンバータ)」と「32bitフロート録音」 を同時に搭載し、それまで当たり前とされてきた「入力レベル(ゲイン)を事前に追い込む」という作業を、技術によって不要にしたからです。 F6の登場は、レベル調整の失敗が即「録り直し」や「使用不能」につながっていた従来の録音現場において、「あとから必ず救える音」を前提とした新しい録音思想を提示した歴史的な転換点でした。 以下、24bit録音時代の課題から、DUAL ADと32bitフロートが誕生し、現代の制作現場のスタンダードになるまでの技術的背景を整理します。
1. ~2015年以前:24bitリニアPCMと「ゲイン合わせ」という宿命
24bitの理論値と現実のギャップ
32bitフロート以前、デジタル録音の標準は24bitリニアPCMでした。24bitは理論上約144dBという広いダ イナミックレンジを持ちますが、実際の現場ではアナログ回路のS/N比やヘッドルームの制約により、理想どおりに使い切れるわけではありませんでした。
● レベルを上げすぎると、突発的な大音量によりデジタルで記録できる限界の0dBFSを超え、デジタルクリップが発生
● 安全を見てレベルを下げすぎると、編集時にゲインを持ち上げた際、フロアノイズや量子化ノイズが目立つ
アナログゲインに依存した「現場の緊張」
このため録音現場では、マイクプリアンプのゲイン調整が品質を左右する最重要作業でした。
● ライブ録音
● 映画・ドラマ撮影における急な大声
● ドキュメンタリーや効果音収録
など、音量の予測が難しい現場では常に「一瞬のレベルオーバーで収録が無意味になる」というリスクを抱えていました。24bit録音の制約は、ビット数そのものというよりも、「アナログゲイン調整に成功しなければならない」という前提にありました。
2. F8(2015年):二系統録音による“バックアップ”という解法
一入力・二系統という発想
この課題に対し、ZOOMは2015年発売のフィールドレコーダー「F8」で、現場で機能する実務的な解決策を提示しました。その根底にあるのは、一つの入力信号を「異なるゲイン条件」で安全に扱うという発想です。これは、アナログ段とデジタル段をまたいだゲイン制御に関する特許(特許第6506623号)にも通じる技術思想です。

F8では、この思想を“現場で使える形”に落とし込み、同一入力から
● 適正レベルで録音するメイントラック
● ゲインを大きく下げ、歪まないことを最優先したバックアップトラック
という2系統のデータを同時に生成できるようにしました。
「安全な保険」としての二重化
この方式により、突発的な音量上昇でメイントラックが歪んでも、バックアップ側のデータで救済できるようになりました。これは「歪まないデータを別系統で確保する」という現実的な解決策でしたが、
● 最終的にどちらを使うかは人の判断が必要
● 2つのファイルを管理する負担が残る
という点で、根本的に「一本の理想的な録音データ」を自動生成する仕組みには至っていませんでした。
3. 開発チームの次の問い:「二つの信号を統合できないか?」
デジタル合成という発想
F8での経験を踏まえ、ZOOMの開発チームは次の課題に取り組みました。 「入力信号を分岐させ、それぞれに異なるゲインをかけた上でデジタル処理によってリアルタイムに統合し、最初から一つの“歪まない音声データ”として記録できないか?」
DUAL ADの原型
この構想から生まれたのが、後に「DUAL AD」と呼ばれる方式です。
● 小さな信号用に高ゲインをかけた経路
● 大きな信号用に低ゲイン(またはゲインなし)で受ける経路
実用化までの技術的課題
この方式の実装には、以下のような課題が伴いました。
● アナログ分岐による位相差・レベル誤差の対策
● AD出力の切り替えや合成時の不連続ノイズ対策
● リアルタイム処理としての安定性確保
● 製品として量産可能な回路設計
開発チームは試作と検証を重ね、DUAL AD方式の実用化に向けて時間をかけて完成度を高めていきました。
4. 「サンプリングレートより、ビット深度」──32bitフロートへの必然
録音フォーマット再考
DUAL ADの開発と並行して、ZOOM社内では録音フォーマットそのものについても検討が進められていました。192kHzなどの高サンプリングレートが注目されていた時代に、日本の録音業界で評価の高いエンジニアから、次の助言がもたらされます。「音質にとっては、高サンプリングレートよりも、高いビット深度の方が効果的だ」
DUAL ADの真価と、24bit固定小数点の限界
DUAL ADシステムの技術的な核心は、「小さな音に対しても、高ゲイン回路を通すことでフルビットに近い解像度(24bit幅)を割り当てられる」点にあります。 通常、小さな音を24bitで録音すると、下位の数ビットしか使われず、実質的な解像度は著しく低くなります。しかしDUAL ADならば、小さな音も「高ゲ インAD」が捉えるため、常に豊かな情報量を維持できます。しかし、ここで問題が生じます。DUAL ADによって得られた「大きな音(低ゲインAD由来)」から「小さな音(高ゲインAD由来)」までの膨大なデータを、従来の24bit固定小数点フォーマットに押し込めようとすると、せっかく高ゲインADが捉えた微小信号の解像度が切り捨てられてしまうのです。
32bitフロートという「容器」の採用
そこで採用されたのが32bitフロート形式です。マーケティング的には「歪まない」点が強調されがちですが、技術的な本質は「DUAL ADが生成した超高解像度データを、劣化させることなく収納できる容器」である点にあります。 仮数部と指数部を持つ32bitフロートを採用することで初めて、DUAL ADが捉えた 「ささやき声の微細なニュアンス」から「F1エンジンの轟音」までを、一切の間引きなしに記録することが可能になったのです。
5. F6(2019年):世界初の「DUAL AD+32bitフロート」フィールドレコーダー
こうして2019年、世界で初めて、DUAL ADと32bitフロート録音を同時に搭載したフィールドレコーダー「ZOOM F6」が誕生しました。F6の決定的な特徴は、「どのゲインで録るか」という判断を、録音者に求めない点にあります。F8では、同一入力を
● 適正ゲインのメイントラック
● 歪まないことを優先した低ゲイントラック
という二系統で同時に記録し、失敗を回避していました。ただし最終的にどちらを使うかは、編集段階で人が選ぶ必要がありました。
F6ではこの二系統を、録音の瞬間に自動で統合します。入力された音声は内部で二つのAD経路に分かれ、
● 小さな音は高ゲインADで高解像度に
● 大きな音は低ゲインADでクリップせずに
捉えられ、その結果は一つの32bitフロート音声データとして記録されます。32bitフロートは、このようにして得られた極小音から大音量までの情報を欠落なく保存できる形式です。
重要なのは、F6が「歪んだ音を後から直す」仕組みではなく、歪みや解像度不足が最初から発生しない構造を持っている点です。その結果、録音時に求められる判断は「録るか、録らないか」だけになりました。
F6は、録音現場からゲイン調整という不安そのものを取り除いた製品だったのです。
6. 現場を変えた「ゲイン調整不要」という実務的価値
F6の登場は、映像・音響業界に大きなインパクトを与えました。
「Recボタンを押すだけでいい。ゲイン調整は不要」
「あとから波形編集ソフトで音量を上げ下げしても、音質が劣化しない」
という体験は、それまでの録音機では得られなかったものです。 これは、写真業界における「RAWデータ撮影」が、音の世界でも可能になった瞬間だったと言えます。
特に、カメラマンが音声を兼任する「ワンマンオペレーション」の現場や、Vlog、YouTube撮影において、その恩恵は絶大でした。モニターを常時監視できない状況でも、F6さえ回しておけば音は守られるからです。
録音時の変化
F6では、録音時に細かなゲイン調整へ神経を集中させる必要が大きく減りました。
● 役者の突然の叫び声
● 想定外の環境音ピーク
● ライブ演奏の急激な音量変化
こうした場面でも、DUAL ADにより高ゲイン側と低ゲイン側の情報が同時に取得され、32bitフロートで記録されるため、録音の破綻リスクが大幅に低減されました。
編集時の変化
32bitフロートの真価は、編集工程での「S/N比の良さ」に表れます。従来の24bit録音(シングルAD)で極めて小さな音を後から持ち上げると、アナログ回路由来の「サーッ」というフロアノイズが目立つだけでなく、デジタルデータの解像度不足による「ザラつき(量子化ノイズ)」も発生し、実用的な音質で復元することは困難でした。
対してF6などのDUAL AD搭載機では、この問題をアナログとデジタルの両面から解決しています。 小さな音は、内部の「高ゲインAD回路」によってアナログ段階で増幅されてからデジタル化されます。
1. S/N比の向上:アナログ信号をノイズフロアから十分に引き離して記録するため、増幅してもフロアノイズが少ない。
2. 解像度の確保:波形の振幅を大きくしてからAD変換するため、24bitのビット深度をフルに活用でき、微細なニュアンスまで記録される。
この高純度なデータが32bitフロートという「大きな器」に格納されているため、編集ソフトで波形を大胆に拡大しても、ノイズや歪みのない、透明な音が立ち上がってくるのです。
● クリップしない(低ゲインADの恩恵):突発的なピークでも音が割れない。
● ノイズが少ない(高ゲインADの恩恵):小さな音を持ち上げてもザラつかない。
この両輪により、「録る段階では安全マージンを取り、仕上げは編集で追い込む」というワークフローが、音質劣化なしに実現できるようになったのです。
7. 技術の展開:各カテゴリへと広がるDUAL ADと32bitフロート
ZOOMはF6で確立したこの技術を、他の製品カテゴリにも展開しています。
● ZOOM UAC-232:32bitフロート対応オーディオインターフェース
● ZOOM L6(LiveTrak):32bitフロート対応デジタルミキサー
● MicTrak/Essentialシリーズ:ハンディレコーダーへの搭載
現在では他社製品にも32bitフロート対応は広がりつつありますが、DUAL ADと32bitフロートを組み合わせた録音システムを最初にフィールド用途で実用化し、普及させたのはZOOMでした。
8. 結論:音の入り口を安定させることで、表現の自由度が広がった
2006年のH4が「持ち運べる高音質録音」を一般化したように、2019年のF6とDUAL AD技術は「失敗しにくい録音」という考え方を定着させました。
● 録音時の緊張を大幅に減らし
● 編集での自由度を高め
● クリエイターが音を含むコンテンツ全体に集中できる環境を整えた
DUAL ADと32bitフロートの組み合わせは、単なるビット数の深化ではなく、録音行為そのものの信頼性を底上げした技術なのです。